最近「縄文時代は平和だった。昔を思い出そう」等の意見を散見することがあります。実際に村作りやコミュニティ運営を始めている人もいるそうです。素敵な取り組みだと思いますが、それを楽しめるのは今のところ日本の隅々まで物資や治安維持が行き渡り平和であるからだと思います。縄文時代をリスペクトするには我々はあまりにも人口が増えすぎ、危険な武器を持ちすぎていると感じます。
私の父方祖父母は農家でした。この集落はほとんどが農家でお米や野菜を出荷していました。今は高齢化したため皆土地を売り、そこに新興住宅地ができました。生前祖母は家の前の小さな畑で家族が食べる分だけの野菜を育てていましたが、そんな畑の作物も盗まれることがあるのです。農薬を使っていない、売り物にならない作物でもです。
もし日本を揺るがすほどの災厄が起きて大勢が飢餓に苦しんだり無政府状態のようになれば、畑の作物などすぐに盗られてしまうでしょう。縄文時代を真似た平和なコミュニティを守るためには強固な柵や武装が必要だろうと思います。仲間内で裏切る人も出てくるかもしれません。人間生きるか死ぬかになれば何をするかわかりません。
「命を繋いでくれたご先祖様に感謝」とよく聞きますが、何万年も続いてきたということはよほど人を踏みつけ出し抜いてきたのではないか、酷いこともしてきただろうと私などは考えてしまいます。善人ならば真っ先に死んでいるでしょう。それとも苦しくても助け合ったからこそ人類は今まで生き残れたのでしょうか。
中央集権的でなく個人所有にこだわらず、資源を共有しあい助け合っていた時代と考えれば縄文時代は魅力的に感じます。これからはそれに近い時代になるのかもしれません。ただ「自分のものになると思えばこそ頑張れる」「自分のものだからこそ責任を持つ」という考え方もあると思います。私有と共有、両方大切です。一人ひとりが変わることで世界も変わるのだろうか、奪い合う世界から分け合う世界になるのか……私もできることをしながら世界の動きを見守ろうと思います。